西都大宰府の空に

西都大宰府を中心に文化財、史跡、名勝、研究会等を紹介していきたいと思います。更新ペースは気ままにまったりの予定。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

太宰府市出土 国分松本遺跡第13次調査 戸籍(計帳木簡)の現地説明会

Image posted by MobyPicture.com

- Posted using MobyPicture.com
先日、発表された太宰府市国分松本遺跡第13次調査から出土したいわゆる「戸籍木簡」の遺跡説明会が2012年6月16日(土曜日)に、太宰府市文化ふれあい館で行われました。

午前中に482人。午後から160名。それの合間にも何十人も来られていたので、実数は650人以上になったと思います。
午前10時からの説明の予定が、あまりに多くの人がエントランスホールにたまったので9時45分ぐらいから前倒しで始めました。100名を1セットにして、午前中に5セットを裁きました。最初の組は説明を10分ぐらいにしてましたが、展示を見る時間が結構かかったので、後半は20分ぐらい説明をして尺の調整をしました。

それにしてもたくさんの人に大雨の中来ていただいてうれしい限りですね。

雨のため現地は見学できなかったけど、木簡を見られた方は皆さん満足そうでなによりでした。
お疲れ様でした。


スポンサーサイト
  1. 2012/06/18(月) 03:44:51|
  2. 筑紫の文化財
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

若宮神社の杜

所在地:太宰府市国分4丁目

数量:一

概要:太宰府市市指定天然記念物。指定は平成21年3月3日付。

若宮神社は筑前国分寺の北東に位置する石祠です。石祠が作られた時代は江戸時代後期と考えられています。その石祠を覆うように3本のムクノキの巨木が繁茂しています。
その最大木は樹高18.3m、幹周4.8m。これは太宰府市内最大であり、福岡地方でも最大級の大きさを誇ります。根本周辺に育成するネズミモチ、ヤブツバキなどの樹木も併せて保護の対象になっています。

若宮神社の杜

参考
http://www.city.dazaifu.lg.jp/data/open/cnt/3/3895/1/P48.pdf
  1. 2011/05/02(月) 05:39:34|
  2. 筑紫の文化財
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

観世音寺寺号碑

観世音寺寺号碑
観世音寺寺号碑 posted by (C)gaku_zzr

太宰府市観世音寺5丁目 所在
観世音寺入口
大正3(1914)年4月造立
張堂大龍書

博多に旅してきた龍禅子(後の大龍)が観世音寺に寄り揮毫した。文字を石に刻んだのは、観世音寺の石工・関要次郎(1892~1951)である。

テーマ:史跡・歴史的遺物 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2008/11/24(月) 20:27:32|
  2. 筑紫の文化財
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

七重塔(般若寺石造七重塔)

【名称】:七重塔(般若寺石造七重塔)(しちじゅうのとう(はんにゃじせきぞうしちじゅうのとう))

【所在地】:福岡県太宰府市朱雀2丁目15

【時代】:鎌倉時代

【指定】:国指定重要文化財

【内容】:西鉄二日市駅の北西に位置する丘に所在する石塔である。丘の上には元々、般若寺とよばれる古代寺院があったとされ、発掘調査で関連遺構が部分的ではあるが検出されている。(平成18年度に太宰府市から報告書が出た)この丘の東部に石塔は立地する。

石塔の高さは基礎から測って、現存高が3.35m。様式としては七重の層塔である。
石材の材質は花崗岩。

塔の細部を見ると、七重に笠石を積み重ねて、笠の上に相輪を置く。ただし一番上の相輪は後で付け足したもので、指定から除かれている。台石には、金剛界の四方仏(大日(中央)・阿閦(東)・宝生(南)・阿弥陀(西) ・不空成就(北))の梵字の種子が力強く刻まれている。

時代は鎌倉時代の造作のため、直接的には奈良時代にあったとされる般若寺と結びつけることはできないが、この丘の上が中世段階までは「聖地」として理解されていたことがわかる資料として貴重だろう。
遠景

近景

台石の梵字が彫り込まれている箇所の詳細。阿弥陀如来か。
相輪だけが違和感がある。石の雰囲気と加工技術の違いがそれか。
  1. 2008/04/14(月) 01:12:42|
  2. 筑紫の文化財
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

鶴の墓

鶴の墓(鶴の碑

所在地:福岡県太宰府市朱雀3丁目11
鶴の墓


 西鉄二日市駅から博多方面に線路沿いに進むと、しばらくして菅原道真の蟄居した南館跡として著名な榎社があります。その榎社前の踏切の傍らには無銘の自然石が佇んでいます。無銘のうえ、説明板もないため、この石に関してご存じの方は、少ないかもしれません。実は、この石には次のような昔話が伝えられています。

 昔、飛騨(現在の岐阜県)の匠が木材を彫刻して、人が乗れるほど大きな鶴の彫刻を作りました。そのまま飛び立つような見事な出来だったため、匠は自分で乗って飛んでみたいと思いました。冗談で鶴の背に乗ってみると、不思議なことに鶴はまるで生きているように、羽を広げて飛び立ちました。匠を乗せた鶴は西へ西へと進み、ついには、唐土(現在の中国)まで到着してしまいました。そこまではよかったのですが、唐土から日本に向けて帰ろうした匠たちに向かって、その異彩を怪しんだ唐土の人により、矢を射られました。その矢によって鶴の片羽は壊されてしましました。片羽になった鶴を匠は励ましながら、日本まで帰ってきました。ちょうど、太宰府あたりまで帰ってきた所で、鶴は力尽きで落ちてしまいました。匠は、鶴を愛おしんで墓を作り、手厚く葬って故郷の飛騨へ帰っていきました。

 この鶴の片羽が、最後に折れて落ちた海辺の津を、「片羽の津」といい、やがて転訛して 「羽片の津」となり「博多の津」となったといわれています。

 また違うお話として、鶴を作ったのは飛騨の匠ではなく、博多の大工の名人が木で鶴をつくったという話もあります。その際に不時着した場所は、通古賀の「鶴の屋敷」「鶴野屋敷」、現在の小字鶴畑あたりだという話も伝えられています。

 寛政2(1790)年に、船賀和尚によって記された『王城神社縁起』によると、
「塩井藪  此辺をつると云、昔、飛弾内匠、唐土に工ミ稽古ニ行し時、唐土より返ささりけれハ、木にて鶴を作り乗て帰りし、其鶴埋ミし所なりト云。」とあるのがこのお話が記録されている最古の例です。

この昔話は、まんが日本昔ばなしでも取り上げられていますので、お話の内容自体はご存じの方もいるかもしれませんが、実はこの昔話の舞台が太宰府だったということは、案外知られていないエピソードでしょう。

 ちなみに昔話に登場した飛騨の匠とは、奈良時代に高い木工技術を持つ飛騨の技術者を、税金の代わりに造宮省や木工寮に従事する匠丁として従事させるために、飛騨の国から都へと送られた人のことをいいます。この人たちの木工技術力で都の造営や仏像が作られていきました。その後、時代が下って中世になると全国にその技術力を請われて匠は行脚しています。その証拠として、各地に飛騨の匠作と伝えられる作品が残っています。もしかすると、博多や太宰府にやってきた飛騨の匠のお話が、形を変えて昔話として現代まで伝わっているのかもしれません。

テーマ:史跡・歴史的遺物 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2008/02/11(月) 11:37:05|
  2. 筑紫の文化財
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ

プロフィール

高橋 学

Author:高橋 学
筑紫の地ではや15年。月日は百代の過客。

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

最近の記事

写真

各地の写真

カテゴリー

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。