西都大宰府の空に

西都大宰府を中心に文化財、史跡、名勝、研究会等を紹介していきたいと思います。更新ペースは気ままにまったりの予定。

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鶴の墓

鶴の墓(鶴の碑

所在地:福岡県太宰府市朱雀3丁目11
鶴の墓


 西鉄二日市駅から博多方面に線路沿いに進むと、しばらくして菅原道真の蟄居した南館跡として著名な榎社があります。その榎社前の踏切の傍らには無銘の自然石が佇んでいます。無銘のうえ、説明板もないため、この石に関してご存じの方は、少ないかもしれません。実は、この石には次のような昔話が伝えられています。

 昔、飛騨(現在の岐阜県)の匠が木材を彫刻して、人が乗れるほど大きな鶴の彫刻を作りました。そのまま飛び立つような見事な出来だったため、匠は自分で乗って飛んでみたいと思いました。冗談で鶴の背に乗ってみると、不思議なことに鶴はまるで生きているように、羽を広げて飛び立ちました。匠を乗せた鶴は西へ西へと進み、ついには、唐土(現在の中国)まで到着してしまいました。そこまではよかったのですが、唐土から日本に向けて帰ろうした匠たちに向かって、その異彩を怪しんだ唐土の人により、矢を射られました。その矢によって鶴の片羽は壊されてしましました。片羽になった鶴を匠は励ましながら、日本まで帰ってきました。ちょうど、太宰府あたりまで帰ってきた所で、鶴は力尽きで落ちてしまいました。匠は、鶴を愛おしんで墓を作り、手厚く葬って故郷の飛騨へ帰っていきました。

 この鶴の片羽が、最後に折れて落ちた海辺の津を、「片羽の津」といい、やがて転訛して 「羽片の津」となり「博多の津」となったといわれています。

 また違うお話として、鶴を作ったのは飛騨の匠ではなく、博多の大工の名人が木で鶴をつくったという話もあります。その際に不時着した場所は、通古賀の「鶴の屋敷」「鶴野屋敷」、現在の小字鶴畑あたりだという話も伝えられています。

 寛政2(1790)年に、船賀和尚によって記された『王城神社縁起』によると、
「塩井藪  此辺をつると云、昔、飛弾内匠、唐土に工ミ稽古ニ行し時、唐土より返ささりけれハ、木にて鶴を作り乗て帰りし、其鶴埋ミし所なりト云。」とあるのがこのお話が記録されている最古の例です。

この昔話は、まんが日本昔ばなしでも取り上げられていますので、お話の内容自体はご存じの方もいるかもしれませんが、実はこの昔話の舞台が太宰府だったということは、案外知られていないエピソードでしょう。

 ちなみに昔話に登場した飛騨の匠とは、奈良時代に高い木工技術を持つ飛騨の技術者を、税金の代わりに造宮省や木工寮に従事する匠丁として従事させるために、飛騨の国から都へと送られた人のことをいいます。この人たちの木工技術力で都の造営や仏像が作られていきました。その後、時代が下って中世になると全国にその技術力を請われて匠は行脚しています。その証拠として、各地に飛騨の匠作と伝えられる作品が残っています。もしかすると、博多や太宰府にやってきた飛騨の匠のお話が、形を変えて昔話として現代まで伝わっているのかもしれません。
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テーマ:史跡・歴史的遺物 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2008/02/11(月) 11:37:05|
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