西都大宰府の空に

西都大宰府を中心に文化財、史跡、名勝、研究会等を紹介していきたいと思います。更新ペースは気ままにまったりの予定。

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冨永朝堂 資料001(西日本シティ銀行:地域社会貢献活動:ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」より)

資料用として、西日本シティ銀行:地域社会貢献活動:ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」から引用

No.33
博多が生んだ彫刻の巨匠
山崎朝雲、冨永朝堂
対談 :昭和60年6月
司会・構成 :土居 善胤
お話:彫刻家 冨永朝堂
聞き手:九州造形短期大学学長 谷口 治達氏
     博多町人文化連盟理事長 西島伊三雄氏
     福岡シティ銀行頭取 四島 司 ※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


太宰府のたたずまいに魅(ひ)かれて……
四島
朝堂先生には、私の父の四島一二三が90歳のときに、胸像をつくっていただきましたので、今日はお話をうかがえて、たいへん嬉しく思っております。彫刻というのは、人間の内面までも浮き彫りにしてしまうようなところがありますね。父も、「私よりも私に似ている」と言っていました。

冨永
あれは昭和45年頃でしたね。粘土で原型をつくりましたが、見にこられたご本人が、「やっ、四島くん」と手で敬礼して、自分より似ていると言われた。ユーモラスな方でしたな。

四島
お庭を拝見していますと、しっとりとして、なんだか、奈良にでも来たような気がしますね。都府楼の風趣に融(と)けこんだ、年代のあるたたずまいで、たいへんいいお住まいですね。

冨永
東京の爆撃が激しくなりましたので、疎開したのです。昭和19年からですから、もう40年を越しました。

谷口
来られたときは、一軒家だったのでしょう。

冨永
ええ、一軒家で、西鉄電車の都府楼で降りて太宰府の方へ歩いてこられると、誰にでもすぐにわかりました。
ここは、聖福寺の戒応老師に「観世音寺の近くにいい場所がある」ということで教えてもらいました。昔の庄屋さんの家というわらぶき屋だったんですが、僕はなるべく鄙(ひな)びたような家に住みたかったんです。
ここから、宝満、耳納(みのう)まではるかに見わたせました。太刀洗(たちあらい)飛行場から敵機要撃にむかった飛行機が撃墜されて、煙があがっているのが見えたこともありました。
終戦後、いろいろな人から、そろそろ東京へ帰ってもいいんじゃないかと言われましたが……、結局はここにずっといることにしました。東京にも30年いましたが、18歳までは、博多にいましたし、僕の人生では、やはり博多がいちばん長いですね。



亀山上皇像と山崎朝雲
東公園の亀山上皇像 山崎朝雲作
東公園の亀山上皇像 山崎朝雲作
西島
先生も博多っ子ですね。たしかお生まれは、博多の赤間(あかんま)町ですね。

冨永
ええ、明治30年の8月8日に下赤間(しもあかんま)町3番地で生まれました。日清戦争が終わって2年目、小学校にあがる頃には、日露戦争が始まりました。
赤間町は、職人ばかりの狭い通りで、私の家もタンスや長持ちなどの家具をつくる指物師をしていました。
西に少し行けば櫛田神社、東はすぐに聖福寺でした。私の師匠の山崎朝雲先生(慶応3-昭和29年)は、櫛田前町の生まれですから、すぐ近くということになります。

四島
じゃあ、先生は小さいころから木のにおいには親しまれていたのですね。

冨永
ええ、そうです。私が小学校にあがるころに、東公園に亀山上皇像と日蓮上人像がつくられました。日蓮上人像は、全国の信者さんから寄進が集まりまして、たいへん質のいいものができましたね。

谷口
ちょうど日露戦争だったということで、630年前の元寇の国難に毅然として対処した2人の銅像を、ゆかりの博多にとなったのですね。

冨永
亀山上皇像は私の先生の山崎朝雲です。日蓮さんは、製作引き受けが東京美術学校校長の岡倉天心で、原型は竹内久一教授ですから、どちらも当代一流の錚々(そうそう)たる人たちでした。
まあ、日蓮上人は亀山上皇のお供にというようなことだったようですが、いざとなってみると、日蓮上人のほうが背が高い、上皇さんのほうが低いのはけしからんということで、土台に盛り土をして高くすることになって、博多の人は一軒に1人の割で勤労奉仕に出ました。その盛土がひょうたん池を掘った土で、これをトロッコで運ぶんです。
私はまだ学校に行っていませんでしたが、奉仕に出た母の後ろを押したことをおぼえています。今思えば、あれが山崎朝雲先生とのはじめての出会いだったんですね。

西島
亀山上皇の鋳造は博多で……。

冨永
いえ、佐賀の谷口鉄工所です。原型は木彫で原寸大につくりますから、頭部と胴体というふうにバラバラでしたね。

西島
ほう、木彫ですか。

冨永
ええ、みんな木彫です。日蓮様もそうですが、昔のものはみんな原型は木彫でした。今では粘土原型が主流ですが、やはりかたいしっかりした感じは、出にくいように思います。
粘土と木彫とでは、まず発想が全然違います。粘土は内にシンがあって、それに肉づけしていくという過程ですが、木彫は木を外から彫っていく、内と外の違いです。また、粘土は何度でもやり直しがききますが、木はそういうわけにはいきません。

谷口
鑿(のみ)の一刀一刀にかける真剣さが違うんですね。

冨永
木彫でつくったものは、朝雲先生の亀山上皇にしろ、高村光雲先生の西郷さんにしろ、今見ても新しい。あの技法を現代に活かさなければ……、と思います。

四島
先生の木彫は、そういうお考えの上で継承しておられるのですね。山崎朝雲についてもう少し……。

冨永
先生も博多っ子で、生まれは櫛田前町。私の生まれた下赤間町から200メートルぐらいですね。
博多人形の元祖とされている正木宗七が先祖だと言っておられました。生家は、べっこう細工や三味線のバチを商うお店でした。
小さいときから手先が器用で、仏師について彫刻をならい、木彫なら京都だと明治26年に上洛。仏像の修理や輸出品の彫刻などをしておられたそうです。
たまたま明治28年の内国勧業博覧会に出品した「養老孝子」を高村光雲先生に認められて光雲の弟子になられたのです。

谷口
高村光雲(嘉永5-昭和9年)は、上野の西郷さんや、皇居前の楠公像の作者ですね。そして、詩人で彫刻家の高村光太郎のお父さんですね。

冨永
朝雲先生は、光雲の影響で、それまでの伝統的な木彫に、洋風彫塑(ちょうそ)の写実技巧を導入した作風となり、「大葉子(おおばこ)」「冗}(たかおかみ)」などの名作があります。

谷口
光雲に朝雲が弟子入りするとき、福岡出身で日露戦争講和に活躍された金子堅太郎子爵が仲立ちしたそうで、面白いですね。


博多の者(もん)はほれやすの飽きやす!?
冨永 朝堂氏
冨永 朝堂氏
谷口 治達氏
谷口 治達氏
四島
ところで、朝雲に先生が入門されるようになったいきさつは……。

冨永
小学校の頃から私は絵が好きで、上田鉄耕という南画の先生の画塾に通っていました。将来は絵描きになろうと思っていたのですが、父の考えは違っていたようです。私が絵がうまいのを幸いに、私を蒔絵師(まきえし)にしようと考えていたようです。
この画塾では、日本画の冨田渓仙(とみたけいせん)(明治12―昭和11年)や今中素友(いまなかそゆう)(明治19―昭和34年)、小早川清(明治32―昭和23年)など、数多くの人が学んでいます。
文展(文部省美術展)が始まったのもその頃で、文展の入賞作の絵葉書が文房具屋の店先にぶら下げられていて、油絵や日本画のほかに彫刻もあって、高村光雲や光太郎などの名前もありました。
それを見て、「ああ、彫刻ができたらいいな」と思い、手も器用ですし、彫刻の方が自分には合っているのではないかと思いました。
親父に「彫刻家になりたい」と言うと、「そんな道楽商売は駄目だ」と頭から反対され、半年ほど家業を手伝っていましたが、大正4年18歳のとき、とうとう家の金を持って、京都へ飛び出しました。
芸術に理解のある遠縁の者の世話になっていましたが、東京美術学校へ行こうと思い、東京へ出ました。

四島
頼る先があったのですか。

冨永
まず橘智定さんを訪ねました。
橘さんは筑前琵琶の創始者で、号は旭翁です。僕が物心ついたときにはもう福岡にはおられなかったのですが、下赤間町の僕の生家の向かいに住んでおられたのです。非常によくしてくださって、両親にもとりなしの手紙を書いて、説得してくださいました。

四島
ご両親は納得されたんですか。

冨永
出ていってしまったんだからもう仕方がないということで、学校に行くなら学資も出すと言ってきました。
そこで東京美術学校に願書を出しましたが、試験前にふとしたことで、学校の事務局長と話し合う機会がありました。
その人は、彫刻家になるなら、この学校に入るよりも、博多出身の山崎朝雲さんに入門するのがいちばんいいと言われたんです。
そのことを橘さんに話すと、朝雲なら義弟だからわけはない、と言われる。妹さんの御主人だったんですね。こりゃ、どうしようかなと思いました。学校に行けば学資もいる、朝雲先生のところなら金はいらない(笑)、ということで……。両親も上京して、先生にお願いにあがったのです。
ところが先生は、博多の人間はいかんと言われる。「博多の人間は惚れやすの飽きやすで辛抱が足りない。今までにも何人かいたが、1週間くらいで逃げ出した。博多の者は駄目だ……」。
橘さんも「とにかく彫刻はうまくならなくてもいいから、年季明けまでは辛抱しろ」と言われて、契約書を2通つくりました。

谷口
徒弟契約書ですね。

冨永
父と智定さんが実印を押した正式のもので、先生と私が1通ずつ持ちました。

西島
何年くらいの契約書なんですか。

冨永
8年です。先生が、証文の最後に朱で追記されて、8ヵ年で技術が未熟だった場合には、2ヵ年追加して10ヵ年にする。

四島
厳しいですね(笑)。

谷口
朝雲先生は博多っ子にしては珍しく厳しい方だったそうですね。

冨永
先生も奥様も博多の方だったんですが、微笑はされるが、大声で笑われたことなど聞いたことがありませんでした。

四島
人門されて、すぐはどんなことを……。

冨永
お使いや雑用が多かったんですが、先生はいろいろなことに厳しくて、歩き方まで叱られたり、博多言葉を使うなと言われたりしました。
今の人は、かえって威張って博多言葉を使ったりしますが、当時は博多言葉を使うと田舎者と思われたのですね。でも、そういう朝雲先生自身がよく博多言葉を使っていました……(笑)。

西島
朝雲の先生であった高村光雲のお宅に行かれたことなどは……。

冨永
光雲先生のお宅へはお使いによく行っていました。もう60歳を越えていらっしゃいましたが、私たちにもやさしかったですね。
光雲先生の家の背中合わせに高村光太郎(たかむらこうたろう)さんの家もあって、いつだったかアトリエに入ったことがあります。
私たちはコウタロウではなく、ミツタロウさんと呼んでいました。西洋風の広いアトリエの2階で、智恵子夫人が機(はた)を織っていたのを覚えています。


手板をとおして師匠を学ぶ
西島 伊三雄氏
西島 伊三雄氏
四島 司
四島 司
四島
最初に彫るものは……。

冨永
最初のうちは模刻ばかりで、朝雲先生の彫られた手板(ていた)を写して学ぶのです。手板というのは、十数センチ四方くらいの板で、1枚めには波状と幾何学模様が、2枚めはモミジ、それから千鳥、ウサギ、ニワトリ、羊、鹿と続きます。だんだん彫りも細かくなり、道具の数も増えてきます。
忠実に模刻しますから、毛筋の数や形まで同じに彫らねばなりません。
ひととおり彫り終わると基本が身につくようになっていて、普通は1年3ヵ月から1年半かかるのですが、私はちょうど1年でできました。

西島
手板で、技法が先生から弟子へと代々伝わっていくのですね。

冨永
私が学んだ手板は、朝雲先生がその昔、光雲先生に師事しておられたときに彫ったもので、それを見て私が学び、私の手板で豊福知徳くんや小田部泰久くんが学んだのです。こうして技術とともに、木彫の心も代々受け継がれていくのです。

谷口
先生の彫られた手板の中に、佐藤朝山(明治21―昭和38年)の手になるものがあったのでしょう。豊福さんが喜んでおられたですね。

四島
佐藤朝山というと、三越デパートの天女像をつくった人ですね。豪放な人だったそうですね。

冨永
朝雲先生の「朝」の字をもらって号にした弟子の1人です。
福島の人で、10歳くらい年上で、僕が入門したときにはもう卒業していました。いろいろな意味で大きな影響を受けた人ですが、たいそう可愛がってもらいました。
その朝山が、入門時に彫った手板の裏に、私が彫ったものがあったのですね。豊福君はそれをうつして、知らない間に朝山の若い日の手に触れたことになります。

西島
先生と聖福寺の楼門の十六羅漢を見にいったことがありますが、あれは山崎朝雲の作ですね。

冨永
僕が入門した翌年の大正5年に先生が病気をされて、久しぶりに博多に帰られたときに、聖福寺の東瀛(とうえい)和尚から頼まれたものです。
あれをつくるときには、まず原寸大の粘土の像をつくり、それを彫材にうつして同じようにつくるのです。荒彫りは弟子の役目ですので、先生の刀法をいやが応でもたたきこまれます。

西島
粘土の原型を木彫におきかえていかれたんですね。

冨永
ええ。始め粘土でこしらえて、石膏どりしたものから木材にうつすのですが、そのときに星取り機をつかいます。垂直の支柱から腕木が伸び、その先端に長い針がついていて、それで計って寸法どおりに写していくのです。顔だけでも何十もの点を計り、その点と点の間を彫っていくことになります。

四島
イタリアからはいったものですか。

冨永
そう、イタリアです。明治時代に伝えられたものを高村光雲先生が使い、山崎朝雲先生が使って、木彫に西洋彫刻の立体感をとり入れていったのです。

谷口
西洋の石彫の技術を木彫に応用したんですね。

冨永
ところが、弟子の朝山がその型を破っちゃった。木に直接彫ってこそ木彫であって、石膏からうつすのは木彫ではなく、コピーだというのです。
まあ、こうしたことが重なって、とうとう朝山は、号を返上して朝雲からはなれ、玄々と称することになります。その天才と豪放さを横山大観から愛されましたが、やはり、朝雲先生あっての朝山だったと思います。
僕は結局、朝雲先生と朝山との中間をとっています。同じ大きさの石膏を作るのではなく、実寸の3分の1か3分の2くらいの大きさの原型をつくり、それを木材に写しているのです。
原型を作れば、でき上がったあとで、少しポーズを変えればよかったなどと、悩まなくてもよくなりますからね。
東京にいた頃は、先生のいわれるとおりのやり方でやっていましたが、時代とともに考え方も変わってきました。
先生の真似をしようとしても、とてもできるものではありません。もし真似をしても、影を追ったようなことになります。技術の中にも、真似のできない先生独特のものがあるのです。
自分は自分なりの芸術を目指さなければいけません。その中に先生の技術を活かしていくというのが、本筋ではないでしょうか。

谷口
博多生まれの芸術家では山崎朝雲さんが、いちばんの出世頭でしょう。昭和27年に文化功労賞ももらっていますね。

冨永
そうですね。ほかに、冨田溪山や児島善三郎(明治26―昭和37年)さん、中村研一(明治28―昭和42年)さんたちがいますね。


坂本繁二郎、児島善三郎 2人の弟子たち
制作風景(アトリエにて)昭和12年(1937)頃
制作風景(アトリエにて)昭和12年(1937)頃
西島
中央の美術界での出世に背を向けて、福岡にずっと……、ということでは、画家の坂本繁二郎(明治15―昭和44年)さんもそうですね。

冨永
坂本先生は八女の田園で、専ら自分の芸術を究めることに心を注がれた。その姿勢では、僕は坂本さんを最も尊敬しています。
僕も昭和19年の3月にこちらへ来たときには疎開のつもりで、また東京に帰るつもりでいました。
5月に坂本さんが訪ねてこられて、ずっとここに居りなさいと言われる。「ここではメシが食えません」と言いますと、あなたの庭には孟宗竹があって筍(たけのこ)も採れるし、食べられる草もある、そういうものがあれば餓え死にする心配はないと……(笑)。
そのうちに、私もこの太宰府の自然が気に入り、坂本さん同様、私も制作だけに没頭したいと思い、ここに永住する決心を固めたのです。

四島
朝堂先生がこちらに居られるということは、私たち博多っ子にとっては、とても嬉しいことですね。
画家の児島善三郎さんともお知り合いだったのですか。

谷口
善三郎は先生より、歳はいくつくらい上ですか。

冨永
僕より4歳上でしたね。僕が東京の大森にアトリエを建てたのが昭和10年。そのすぐ後くらいに訪ねて来られました。建てたばかりの茶室の谷風庵の白いふすまに、何か絵を描いてやろうと言われる。僕はあわてて、「またこの次に」と、言って断りました(笑)。

四島
今から思えば残念ですね。

冨永
そうなんです。全く残念で……(笑)。同じ博多っ子どうしですから、善三郎さんの代々木のアトリエとも数回往き来しました。児島さんは善三郎が本名、僕は良三郎が本名で、2人あわせると善良三郎、お互い悪いことができないなと笑っていました。
戦争が激しくなってから、「あんたが疎開するのなら僕もそうしよう。先に行っててくれ」と言われ、僕は正直に来たが、彼はやってこない。
あとで太宰府に訪ねて来て、自分もここに住むと言うんです。隣が空き地だったんで、ここはどうかと言うと、そこでは狭い。やっと気に入った場所が国分寺跡。「ここから博多が見えるからここがいい。なんとかしてくれ」と言われましたが、「冗談じゃない、ここは国指定史跡ですよ」(笑)。
宝満山のスケッチなどに私の家から通っていました。「原鶴の小野屋のおかみさんは美人だぞ。お前もおがみに行ってこい」などと言っていました。あの人は、本当にワンマンな人だったけど、気持ちはさっぱりした博多の人でしたね。東京にずっといましたが、やはり博多が懐かしかったのでは……。

西島
ヨーロッパで活躍しておられる豊福知徳さんは、いつ頃先生のところにこられたのですか。

冨永
終戦直後の21年です。大学のときに学徒動員にあい、特攻隊要員で出撃を待っているときに終戦を迎えたのです。
久留米にかえってきても大学には戻らず、どうしようかと迷っていた頃、手すさびにパイプなど彫っている腕を見て、「あんたは彫刻家になったらいい」と言われて、僕のところへ来ました。「彫刻家か、そんな仕事もあるもんだな」と思ったそうです。
近くの戒壇院に下宿して、2年間毎日、僕のアトリエに通っていました。

西島
小田部泰久さんは。

冨永
豊福くんは半年か1年ばかり後だったでしょう。小田部くんは木彫よりも塑像(そぞう)の方が自分には合っていると言って、現在はそちらで活躍しています。
僕の教え方というのは、ここをこうしろああしろと、横についていて教えるのではなく、課題だけ与えると、僕は別の部屋で仕事をしています。2人は2人で自分達の仕事をさせて、僕の仕事は手伝わせない。
僕は仕事を中断するとき、制作中の作品には布をかぶせておくのですが、席に戻ってみると布のかぶせ方がちがう。2人がこっそりのぞいているんですね。どんなふうにやっているのかなと、師匠の私のウデをぬすんでいる……、こうして弟子は育つのです。

谷口
豊福さんも、朝堂先生の手板を見て彫ったんでしょう。

冨永朝堂作「卑弥呼の顔」
冨永朝堂作「卑弥呼の顔」
冨永
昔は厳しくて、弟子は先生のとおりにやれというものでした。それが僕にも多少うつっていますから、手板の模刻から始めました。
手板を渡して、自由にやれというと、一生懸命彫っている。僕が口で言わなくとも納得する。刀の強さとか、木彫の精神を受け継いでいくし、独自の方法も体得していく。
豊福くんの作品を見ても、よく木彫の特徴が出ている。あの線の厳しさは粘土では出ません。
木彫の一番いいところは厳しさです。それは高村光雲先生から山崎朝雲先生、そして僕から豊福くんへとずっと伝わっています。



空間に形を与えて……
冨永朝堂作「静雲翁」
冨永朝堂作「静雲翁」
四島
先生が、ご自分の彫刻について思っていらっしゃることを……。

冨永
木彫の基本というのは、朝雲先生から教わったテクニック、技術ですが、先生の技術は習っても、人間は1人1人考え方が違います。違いが作品の中に、その人の個性とか人生観という形で込められなければいけません。
それに向かって技術を活かしていくべきだと思います。考え方はいろいろでしょうが、僕はこれでいこうと思いました。
朝雲先生のところを卒業してからは、先生のやり方を忠実に守って帝展などに出品していました。帝展では、卒業制作として出品した「雪山の女」が初入選。それからほぼ毎年出品し、昭和7年には「五比賣命(いつひめのみこと)」で特選、翌八年には「踊女」で2年連続特選をいただき、9年の「女子円盤」でも特選級の推薦のあつかいになりました。
しかし、その間にも制作上の悩みは昂じていました。
帝展は、技術の巧拙を重点的に評価しますが、別のやり方もあるのでは……と考えたからです。表面的な技術の巧拙にとらわれるのではなく、真の芸術とは何かと考えると、制作上の真剣な悩みとなっていきました。
迷いを解決する策として、禅をやってみようと思いました。有名な品川の東海寺に参禅して、始めに出された公案が「隻手音声」、つまり、片手で音を聴くということでした。
本堂で座禅を組み、考えるが、容易なことではわかりません。3年間、月に1、2回の割で座禅に通いました。それでもわからないので、茶禅一味と言いますから、お茶と禅とはどのような関わりがあるかと思って、こんどはお茶をすることにしました。
御点前を習うというよりは、茶の心を研究したいと思ったのです。お茶も禅も、昭和17年頃まで先生について習いました。
古陶器にも以前から趣味がありましたし、お茶は現在でも楽しんでやっています。

西島
茶でも禅でも、精神的な面がぬけ落ちて、パターンばかりになっているものが多いですものね。先生はそこを、とことん追い索(もと)められた……。

冨永
その帰結でしょうか、僕の作品の方向は、宇宙に題材をとったり、空間、山、陸、海、そういうものに題材を求めて、それに人間の形を与える。形のないものを形としてどう表すのかということになりました。
そうしてつくったのが、福岡市立美術館に収められている「谷風(こくふう)」です。谷風というのは、漢文の中にある春の風のことですが、大宇宙を翔ける姿、とどまるところを知らない流動感を表したかったのです。
その後も「天の川」(昭和33年、日展)、「天の御柱」(昭和35年、日展)「爽風」(昭和40年、日展)など、空や山に題材をとって、それをいかに人の形として表すか、ということを追求しました。

四島
先生の木彫の3部作ですが、北九州市立美術館にありますね。敢えて、もろい材の杉をつかっておられる。先生の創造された木彫の自由の境がうかがえるような気がしますね。

冨永
あれは、昭和41年に四人像の「昇」、42年につくった三人像の「生れる」、43年に三人像「歩く」の3部作です。
福岡市の戦災復興記念に、戦災で死に、復興で生まれ、発展へ歩き出すという意味でいいと言われ、ブロンズにして中島橋のたもとに立っています。

谷口
朝堂先生が偉大な朝雲の影響から抜け出て、冨永朝堂として生きるためには、たいへんなエネルギーが必要だった。お茶や禅をやるということが必要だったわけですね。結局、太宰府に来られて、自分の本当の彫刻を見つけられた、ということでしょうか。

四島
先生の作品を一堂にあつめた展示室というのが欲しいものですね。冨永朝堂ルームというのを、是非博多につくらなくてはいけませんよ。

司会
ともあれ先生、いつまでもお元気で、いい作品をつくり続けてください。今日はどうもありがとうございました。

■谷口治達氏略歴
昭和7年広島に生まれる。東京大学国文学科卒。西日本新聞編集委員、文化部長、論説委員など歴任。田川市立美術館長・現顧問、九州造形短期大学学長。著書『坂本繁二郎の道』『彫心澄明-冨永朝堂聞書』『俳諧求道-小原菁々子聞書』『青木繁・坂本繁二郎』 ほか。

※朝堂氏の作品は片山摂三氏の 「冨永朝堂写真集」より掲載させていただきました。

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  2. 冨永朝堂
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